帰り花 ②

 或る日、私は思い立ってあなたに逢いに行くことにしました。その時、私は既に十八歳になっていました。折しも季節は春。桜も終わりかけの卯月の或る日曜日でした。

 私が今住んでいる町と以前いた町とは隣り合う県で然程、離れていなかったのです。

 幼い日、あなたから頂いた本を――何度も繰り返し読んでぼろぼろになった、愛着のある本を携え、列車を数時間乗り継いで生れた町に降り立った私は記憶を頼りに小さな廃寺を探しました。道を歩いていると段々懐かしさと共に記憶がはっきりと甦って、迷うことなくあなたと初めて出逢った場所へと辿り着きました。

 お寺の境内の染井吉野は微風(そよかぜ)に花弁を零しておりました。宙に舞い散る薄紅色は夏の気配を孕んだ陽射しの中で翻り、眩(まばゆ)く煌めいて見えました。境内はしんと静まっていて、誰もいない様子。私は逸る気持ちで本堂の裏へと廻りました。そこには果たして以前と変わらない佇まいの平屋がありました。

「春さん」

 縁先から閉じられた障子戸に向かって呼びかけました。暫くしてカタンと小さな音を立てて障子戸が細く開き、白い影がちらと動きました。私は目を瞠りました。障子戸の向こうから現れたあなたはあの頃とちっとも変わらないお姿で、鴉の濡羽色の御髪を長く垂らして白っぽい和服を身に纏っていらっしゃいました。私を認めたあなたは酷く驚いたふうに漆黒の双眸を見開いてその場に立ち尽くしておいででした。

「春さん。私よ。桐子。――お久しぶりね」

 私はそれだけ云うのが精一杯でした。心臓がどきどき高鳴って、もう胸がいっぱいになってしまって、無理に笑顔を作っていなければ涙が溢れてしまいそうでした。

「どうして――」

「近くに来たから寄ったの。お変わりなくて?」

気恥しさからあなたに逢いにきたとは云えませんでした。

「桐子は、変わったね。見違えるようだ」

「もう十八だもの。でも春さんはあの時のままね、本当に……」

「ここは変わらないから」

「あれからも……ずっとお独りなの?」

「私は独りだよ。これから先も」

「そう……。春さん、またここに来ても良いかしら? 昔みたいに」

「それは――」

「いけない?」

 あなたは少しの間、眉根を寄せて沈黙していましたが、重ねて問うと小さく頷いて、再びここへ来ることを赦してくださいました。この時の、天にも昇る心地! もっと早くにあなたに逢いにゆけば良かったと思ったほどです。

 私は学校がお休みになる日曜日になると列車を乗り継いであなたに逢いにゆきました。あなたに逢えると思うと嬉しさのあまり、前日の夜はなかなか寝付かれないくらいでした。

 葉桜の季節になると貴方の御髪はまた短くなりました。

「どうして桜が散ると髪の毛をお切りになるの? 春さんの髪はとても綺麗なのに。勿体ないわ」

 私はあなたの毛先に手を伸ばして軽く触れました。この時にはあなたとの距離は何の気なしに髪や肩に触れるくらいには近付いていました。

「どうしてって。花が散るからだよ。――桐子の髪も昔より伸びたね」

 今度はあなたの白い指先が私の髪の先を掬います。私の髪の毛は胸の辺りまでありました。

「伸ばしているの」

 あなたみたいに綺麗な髪ではなかったけれど、私は髪を伸ばすことによってあなたにもっと近付きたかったのです。あなたみたいに美しくなりたかったのです。

「髪を結んであげよう」

あなたはそう仰って、私の髪を櫛で梳くと器用に編み込んで繻子の藤色のリボンを結んでくださいました。

「藤色は桐子に良く似合うね」

あなたに髪を触れられるのはとても心地よく、まるであなたの飼い猫になったような気分になりました。

 あなたとはいつも、縁側に腰掛けて取り留めもないお喋りをしましたね。学校のこと、お友達のこと、普段の生活のこと、母のこと、好きな本のこと……あなたはいつも微笑みを浮かべて私の話を聞いてくださいました。けれどもあなたはご自身のことを殆ど何もお話にならなかった。年齢も、どこで生まれ育ったのかも。

「春さんはよっぽど秘密主義なのねえ」

「そうじゃない。只、語るべきものが何もないからだよ」

 あなたは少しだけ寂しそうな眸をなさって口元に淡く笑みを漂わせていらっしゃいました。

「明確に語れるのは私は独りである、ということだけだ」

「そんなことないわ。私がいるわ。ずっと、春さんの傍にいるわ」

 あなたの細く冷たい手を握るとあなたは長い睫毛を瞬いて「どうして君はそこまで――」不思議そうに私を見るのでした。

「だって私……、私は……」

 あなたが好きなのです――言葉にならず、想いは涙となって頬を流れました。

「桐子。泣かないで」

 あなたの手が優しく私の頬に触れ、親指の腹で濡れた下瞼を拭ってくださいました。と、あなたは顔を寄せ、秀でた額を合わせて私の眸の奥を覗き込みます。綺麗なあなたの眸の中に私の泣き顔が逆さに映り込んだ次の瞬間、柔く抱き締められました。どきんと胸が大きく鳴って驚きのあまり目を見開くとあなたは腕に力を込めて私を抱きました。不意に幼い頃、初めてあなたに抱き上げられた時の記憶が桜の馨りと共に返ってきました。あなたの手がそっと私の背を慰撫するように触れて、堪らなくなった私はあなたの肩口に顔を埋(うず)めました。涙が止めどなく溢れてあなたの着物を濡らしてゆきます。

「――好き。私は春さんが好き」

 ああとうとう云ってしまった――長年秘めてきた戀の告白は軽い喪失感を伴いました。

 伏せていた顔を上げると涙で濡れた視界の中であなたは微かに――少しだけ戸惑ったように笑んでいらっしゃいました。

「桐子。私は――」

 何も仰らないで――私はあなたの白い貌(かんばせ)を両の手で包むと形の佳い朱唇(くちびる)に口付けました。あなたの朱唇は柔らかく、ひんやりとして馨しい葩(はなびら)のようでした。

 初めての戀、初めての接吻。

 狂おしいほどにあなたが好きでした。

「春さん。今日は出掛けないこと? お天気も良くて気持ちが良いわ」

 葉月の最後の日曜日、私はあなたと一緒に外を歩いてみたくて誘いました。するとあなたは「私はここから離れられないんだ」緩く頭(かぶり)を振って仰いました。

「どうして? どこかお加減でも悪くていらっしゃるの?」

「いや。そうではないよ」

「では、なぜ?」

「どうしても。――境内なら出歩けるけれどね」

「それじゃあ、境内をお散歩しましょう」

 私はあなたと肩を並べて夏の爽やかな陽射しの中、お寺の境内をゆったりとした足取りで巡りました。刻まれた文字が雨曝しに読めなくなった苔むした碑石、小さく祀られた地蔵、鎖されたままの本堂――特別見るべきものがあるわけでもなく、どこもかしこも目に馴染んだ景色でしたが、あなたと手を繋いで歩けることがとても嬉しく、私は終始胸を踊らせていたのでした。とても幸福な時間でした。

 葉ばかりになった桜の樹の下に立って、あなたは愛おしむように、齢を重ねたごつごつとした木肌を撫でました。或る一点をじっとお見詰めになって、何かを考えているふうでありました。どこか遠い眼付きで。

「春さん。本当の名前は思い出せて?」

「さあ……?」

 あなたは細い首を傾げます。

「あなたは不思議な方ね。私、あなたのことについて何にも知らないわ。あなたは私のことを知っているのに。何だか不公平だわ」

 御免――眉を曇らせるあなたの漆黒の眸は微かに揺らいでいました。それは今にも泣き出しそうな表情にも見えて、私のと胸を衝きました。

「ごめんなさい。春さんを責めているのではないの。只、私、あなたのことが知りたいだけなの」

 戀とは、愛とは時に何と傲慢で暴力的で浅ましいのでしょう。あなたは薄く憂いを額に漂わせたまま「私が桐子が知っている。私に桐子が名前をくれた。それが全てなんだ。それでは――いけない?」私の顔を覗き込みました。あなたの眼眸(まなざ)しが近付いてきたと思うと、柔らかなものが唇に触れました。眼前には花開く笑顔。私は継ぐ言葉を失いました。

「私は桐子が好きだよ」

 今でもあなたの声が胸の底で鳴り響いて已みません。私を縛して離さないあなたの声、眸、体温。


 梅雨が明けて本格的に夏が始まった文月の或る日曜日。珍しくからっと晴れ渡ったその日、あなたはいつかのように部屋いっぱいに蔵書を並べて本の虫干しをなさっていました。古びた水墨(インク)の匂いと焼けて黄ばんだ紙の匂いが立ち上る陽向の熱気に混じって一種の懐かしい馨りを漂わせていました。

「昔も思ったけれど、春さんは本がお好きなのね。あなたも本をお書きになるの?」

 私は近くにあった一冊の文庫本を手に取って手慰みにぱらぱらと捲ってみました。それは若くして夭折した詩人の本でした。

「私にそんな才能はないよ」

「そうかしら? 春さんが書いた本があれば読んでみたいわ」

「桐子が書いたら良い」

「私が? でも私こそそんな才能はなくってよ」

 するとあなたは私の眸(め)をじっとお見詰めになって仰いました。

「桐子なら何だってできるよ。――君は綺麗な瞳をしているからね。見えている世界も、きっと綺麗なのだろうね」

「春さんには、どんなふうに見えていますの?」

 見詰める黒々とした双眸はどこまでも澄んで静かな湖のよう――あなたは只微笑むばかり。と、目の端に赤い色を捕らえました。視軸をそちらに転じると、赤い色は大型の本でした。私はふと思い出しました。

「これ……」

 私は立ち上がって赤い本の傍に寄ると手を伸ばしました。題字は削れて読めなくなっていました。

「桐子」

「何?」

「その本は、いけないよ」

「昔もそう仰っていたわね。でも、もうあの頃の私じゃないわ」

 本を手に取り、表紙を開こうとするとあなたは私の手を掴んで押し止め、本を取り上げました。

「もう。どうしてそんなに見てはいけないって仰るの?」

「桐子が見るような本ではないからね」

 あなたは大事そうに本を抱えます。

「私はもう子供じゃないわ」

「だから、余計に」

「ねえ、どんなご本なのか教えてくださらないこと?」

 本の大きさからいって、恐らく何らかの画集であることは解かりましたが、どのような作品が収められているのかは窺い知れませんでした。あなたは本を隠すように背後に置くと、少し眉根を寄せて悩ましげな表情をしていらっしゃいました。尚も私がせがむと、すっと白いお顔を寄せて軽く唇を触れ合わせました。あなたの朱唇はひんやりと、淡く桜の馨りがしました。

「つまりは、こういうことだよ」

「――それから?」

「それから――」

 幾分か細い手が宙で惑って、私の髪に触れました。束ねた髪の先に結んでいたあなたから貰った藤色のリボンの端が引かれ、するりととかれました。白く長い指が緩く縺れた髪を梳きます。あなたと私を距てる沈黙の中にひらりとリボンが落ちました。

「次は、どうなさいますの?」

 私は何でもないふうを装って云いましたが、本当は胸が苦しいほど鼓動を早めていました。あなたの指先が掠めるたびに、気配が近付くたびに、羞恥と或る種の好奇心と、あなたへの思慕とに胸がどうしようもなく高鳴って今にも心臓が壊れそうでした。あなたは私のブラウスのリボンを見詰めたまま黙り込んでしまいました。

「最後まで教えて――」

 私は温度の低いあなたの手を取り、胸元のリボンへ導きました。あなたは恐る恐るといった風情でリボンをとき、私をもほどいてゆきました。初めて触れたあなたの素肌は熱く、馨しい青葉のような、爽やかな匂いがいたしました。そしてまた、抱き締められると桜の花群れに包まれているかのように錯覚しました。花の柩。ふとそんな言葉が思い浮かびます。幻視とも、幻覚ともつかないそれは真に不思議な体験でした。あなたと膚を重ねた時はひとつの感動がありました。あなたの柔らかで瑞々しい朱唇が膚を滑り、指先が私の輪郭をなぞって、互いの髀(もも)を深く交らわせて、吐息を散らしながら未知の感覚へと連れて行く――私は華奢な白い躰に縋りついてあなたに溺れてゆきました。

 あなたは私をどこまでも優しく抱きながら時折、泣きそうなお顔をなさいました。あの時は解らなかったけれど、今ならあなたの悲しみが良く解るように思います。愛しさの、戀しさの悲しみが。


 あなたとの二度目の別れも突然でした。

 蝉の聲が姦しい葉月の昼下がり、いつものようにお寺へ行きますと、境内の入口が『工事中』の柵で塞がれていました。何やら騒がしい気配がします。私は訝しく思って境内の中を覗き込みました。すると作業服を着た人達が忙しそうに立ち働いているのが見えました。彼等は桜を取り囲み、機械を操って樹を切り倒しているのでした。桜の樹は獰猛に駆動する鋭利な刃をその身に受けながら、躰を二つに裂かれて少しずつ傾いでいきます。私は唖然と立ち尽くしてその様子を見ていました。作業員達は大儀そうに首に巻いたタオルで汗を拭き拭き、幹に電動鋸を喰い込ませていきます。どのくらい、時間が経ったのでしょう。あんなにも美しい花を咲かせていた、健やかに青々と葉を茂らせている桜の樹はとうとう無惨に切り倒されてしまいました。作業員達は更に樹を細かく裁断して縄で束ねるとトラックの荷台へと積み込んでいきます。私は一歩も動けないまま、作業が終わるまでぼんやりと眺めていました。

 作業員達が引き上げ、入口の封鎖が解かれると、私は一目散に駆け出してあなたの住まいを訪ねました。しかしそこで私は途方に暮れてしまいました。本堂の裏にあった筈の平屋が跡形もなく消え去っていたからです。まるで魔法のように何の前触れもなく無くなってしまったのでした。私は何か悪い夢を見ているのかと思ったほどです。狭い境内の中を何度も何度もぐるぐると歩き回りましたけれど、やはりあなたが棲まっていた平屋はどこにもなく、桜の切り株が寂しく残されているだけでした。それでも私はあなたに逢いたい一心で近くを歩いていた人を捕まえて平屋の存在を訊ねたりもいたしました。けれども、皆一様にそのような家はなかった筈だと云いました。あなたのことも話してみましたけれども、そんな人は一度も見かけたことはないと口を揃えて云うのです。私は食い下がって尚もあなたの所在を訊きました。ですが結果は覆ることはありませんでした。

 あなたは私を残して消えてしまった。

 何も云わずに。

 私に痛いほどの思慕を残して。

 あなたはどこへ行ってしまわれたのでしょう。

 あなたは何者だったのでしょう。

 いいえ、あなたが何者であろうと構わない。あなたは確かに存在し、私に戀を、愛を教えてくださいました。あなたがいなければ、出逢わなければ、私は痛切な恋情を、愛情を、知ることはなかったでしょう。誰かを喪う悲しみすらも。

 私は学校を卒業をして、就職し、職場で出逢った人と結婚して、子供を産みました。その子供もすっかり大人になって新しい家族を作って、私はお婆さんになりました。振り返ってみれば、私は平凡でありながらとても幸福な生涯を生きたと思います。今も私は幸せです。大切な家族を愛しく思っています。でもそれ以上にあなたが懐かしく、愛おしく思われるのです。

 あなたは今、何方(どちら)にいらっしゃるのでしょう。

 今も変わらず独りでいらっしゃるのでしょうか。

 残された生が終わる前にもう一度、あなたにお目にかかりたいのです。一目あなたに逢って最後にきちんとお別れをしたいのです。ああどうか――あなたに逢えますように。

月睡蓮

椿蓮子による一次創作サイト。小説や個人ペーパー、日記などを置いています。 どうぞごゆるりとお楽しみくださいませ。

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