帰り花 ①
散ればこそ いとど桜はめでたけれ
憂き世になにか久しかるべき
前略、お元気ですか。
こうしてあなたにお手紙を差し上げるのは初めてですね。でもあなたはきっとこの手紙を読まないでしょう。いいえ、読まないのではなく、あなたには届かないと思います。それでも私はあなたに向けてお手紙を書きます。最初で最後の、お手紙を。虚しいとお思いですか? でも、それでも良いんですの。私は今でもあなたを忘れられずにいるのです。
初めてあなたに出逢ったのは桜が爛漫と咲き誇る美しい春の日でした。そう、あの春の日、あなたは独り泣いていた幼い私の前に現れたのでした。
あの時はお寺の境内で、近所に住む年上のお友達とかくれんぼをして遊んでいたのだけれど、お友達は途中で遊びに飽きてしまったのか、年下の私を鬱陶しく思ったのか、隠れたままの私を置いて皆どこかへ行ってしまって……あんまりお友達が探しに来ないものだから、私も不思議に思って境内の中を歩き回ってお友達を探したけれど、もう誰もない。置いてけぼりにされたのと私ひとりではお家まで帰ることができないのとで、急に心細くなってしまって、私は泣き出してしまったのね。そうしたらあなたが桜の樹の蔭から現れた。白っぽい和服姿で、漆黒の御髪(おぐし)を長く垂らした姿で……桜の花を透かす淡い春光の中に佇むあなたはとても綺麗でした。凄艶な佇まいに私はびっくりして泣き止んでしまったくらい。あなたは少し不思議そうに私を見て、どうして泣いているのかってお訊きになりましたっけ。事情を涙につっかえつっかえ、お話すると、不意にあなたは私を抱き上げて、風のように桜の樹へ御登りになった。
桜の大樹の天辺から町並みを見下ろして私に「君の家は彼処(あすこ)だ」指差して仰いました。それから無事にお家に帰れるようにとあなたは白い指先で桜の花房を摘んで私の髪に飾ってくださいました。私はどきどきしながら只、あなたの白く美しいお顔を眺めているばかりで、口も利けない有様でした。その後のことはあまり良く憶えておりません。どこをどう歩いて家に帰ったのかさえ……記憶にあるのは、母が私の頭から桜の花を毟り取ってしまって、それが悲しくて、口惜しくて、寝る頃になっても、いつまでもぐずぐず泣いていたことです。あなたから初めて贈られた桜の花は無惨なことになりました。私はずっと大事にしておきたかったのに。私は幼いながら、もうその時にはあなたに戀をしていたのでした。不思議ですわね。どんなに幼くとも、誰に教えられなくとも、誰かに戀する。誰かを愛する。なぜでしょう。
あなたに逢いたくて、私は翌日もお寺へゆきました。境内には誰もおらず、ひっそりとしていました。柔らかい春陽が麗らかに、静かに咲いている桜を仄めかせていました。私は境内を一回りしてあなたを探しました。でもあなたはいらっしゃらなかった。逢えないとなると堪らなく寂しくなって視界がじんわり滲み出します。すると背後で人の気配がしました。振り返るとあなたが立っていました。昨日と同じように、白い和服姿のあなた。長い髪が風に浚われ、吹き流されて、陽の光を艶々と弾く、鴉の濡羽色。染井吉野が散り、清らかな陽射しの中で佇むあなた……今でもあの時の光景は鮮明に私の眸(ひとみ)の底に焼き付いております。眸(め)を閉じれば、ありありと見える。あなたのお顔が。少しだけ憂いを含んだ闇色の眸を縁取る長い睫毛、涼しげな目許、冷たく通った鼻筋、形の佳(よ)い朱唇(くちびる)、滑らかな白い頬、ひんやりとした体温。淡雪のように儚げな佇まいは現実感が乏しくて、まるで幻燈映写機で映した像のよう。でも確かにあなたはいらした。初めて抱き上げられた時の腕の確かさ、あの淡い馨(かお)りも忘れてはいません。
「君独りなの?」
問われても私は返事ができませんでした。胸が酷く鳴って足が慄(ふる)えていました。そんな私に尚もあなたは問います。
「どうしてここへ来たの?」
私はどう答えて良いものか当惑しました。あなたの口振りは私を些か咎めるふうでもあり、単純に小さな女の子が人気のない廃寺に(後から知ったことですが、あのお寺は随分前から管理する人がなくて打ち捨てられていたのですってね)来たのか不思議がっているふうでもありました。私が黙っているとあなたは「また迷子なの?」私の目の前に屈み込んでお訊ねになりました。間近にいるあなたから微かに桜の馨りがいたしました。
私は自分の気持ちをどのように伝えて良いものか解らずに、只首を横に振るのが精一杯でした。あなたに逢いたかったとは云えなかったのです。あなたは「そう」冷淡に頷いて本堂へと歩いてゆきます。置いていかれると思った私は慌ててあなたの後を追いました。あなたはちょっと後ろを振り返って私を認めると、初めて優しく微笑みました。その笑顔に胸が苦しくなったのを憶えています。
あなたは私を伴って本堂の裏手にあった平屋の縁側に座らせて(これも不思議なことで、お友達と遊んでいた時など私は平屋の存在に気が付かなかったのです。まるで急にどこからともなくぬっと現れたかのようでした)お茶と乾菓子をご馳走してくださいました。母から見知らぬ人から物や食べ物を貰ってはいけないと云い付けられていましたけれど、あなたと逢うのは二度目だから見知らぬ人ではないし、また信頼もあって、出されたものを素直に受け取って食したのでした。あなたも隣に腰掛けて黙ってお茶を飲んでいらっしゃいました。あなたとの間にあった沈黙は優しい陽だまりのように心地が良いものでした。私は幼いながら自分が大人になったような気持ちでいました。
「名前は?」
「……桐子(とうこ)。あなたは?」
訊ねてもあなたは眉尻を下げて薄く微笑むばかりで何にも仰いませんでした。どうして名前を教えてくれないのだろうと不審に思いながら重ねて訊ねますと「疾うの昔に忘れてしまったのだよ」尚も笑みを深めて仰るのでした。
「嘘。自分の名前なのに?」
「もう長いこと、誰からも名前を呼ばれていないからね。だから忘れてしまった」
あなたは寂しそうな翳を片頬に潜ませて力なく呟かれました。そんなあなたを見て私は無邪気にも――無遠慮にもと云った方が正しいかもしれませんが――あなたに名前を付けることを思い付いたのでした。深い漆黒の眸を長いこと見詰めて思案を巡らせました。
「――春」
「え?」
あなたは長い睫毛を瞬いて小首を傾げます。
「春。――春さん。だってあなたは春みたいに綺麗だから」
するとあなたは僅かに目を瞠った後、小さく頷いて笑ったのでした。とても嬉しそうに。
「春さん」
「何?」
「ううん、春さんって呼びたいだけ」
私がそう云うとあなたは目を細めて擽ったそうに微笑しました。私はあなたの微笑む表情(かお)がとても好きでした。
それから私は足繫くお寺へと遊びに行きました。あなたに逢いたいのと、あなたが独りぼっちでいるのではないかと云う思いからでした。私はあなたを包む孤独を剥がしてあげたいと子供心ながらに思っていたのです。あなたは子供である私を厭うことなく、煩わしいと思うこともなく、逢いにゆけば親しい友人のように、または大切な妹のように接してくださいました。あなたに戀をしていた私ですが、幼い戀は仮令妹のように扱われようとも、あなたをその場で独占できればそれで満足なのでした。
一度、自分のお友達を連れてあなたを訪ねようと考えたこともあったのですが、あなたをお友達に取られてしまうのが厭で、結局私は独りであなたの許に通ったのでした。またあなたの存在も誰にも明かしませんでした。お友達にも両親にも。それは偏に戀心から成る独占欲、もっと云えば嫉妬心、そして秘密を持つことの愉悦からでした。あなたは真に秘密の美しい花、美しい季節なのでした。
特段何をする訳でもなく、会話も途切れがちではあったけれど、只、あなたと縁側で並んで観た鮮やかな景色、陽射しの暖かさ、風の心地よさ、滴る緑の匂い、何もかもが特別で、今でも当時の記憶は胸の奥底で鮮烈な色彩を宿したまま――。あなたは? 憶えていらっしゃいますか?
桜の花が散り、葉桜になった初夏の頃。
いつものようにあなたを訪ねてゆくと、平屋の奥から現れたあなたを見て驚きました。あなたの長い御髪がばっさりと短く切られていたから。耳朶の下で真っ直ぐに髪を切り揃えたあなたは青竹色の着物をお召しになって、膚の白さが際立って見えました。御髪を短くした所為でしょうか。不意にあなたが知らない人に見えました。どうして髪を切ったのかと訊くと「ああ、花が散ったからね」そんなことを仰いました。あなたはぼんやりと立ち尽くしている私を見て「今日は上等な柏餅があるよ。縁側で一緒に食べよう」微笑んで私の手を引くのでした。
家に上がって再び私は驚きを禁じ得ませんでした。
畳いっぱいに、それこそ縁先まで書籍が部屋を占領していたからです。日焼けした文庫本や大判の書物、一目見て高価そうな、題字を金糸で刺繍した本まで、夥しい本の数に恐怖を覚えるほどでした。一度にこんなにも大量の本を見たのはあの時が初めてでした。私はあなたが本を書いて暮らしているのかと思ったくらいです。
「これ、どうしたの?」
「虫干しをしているんだよ」
「虫……?」
「本が傷まないように時々こうして空気に晒すんだ」
「ふうん」
私は何の気もなしに目についた赤い布張りの大きな本に手を伸ばしました。と、あなたはそれを取り上げてしまいます。
「この本は桐子にはまだ読めないよ」
「どうして?」
「難しいことが書いてあるから」
「私だって読めるわ」
私は近くにあった文庫本を指して題名を読み上げて頁をぱらぱらと捲り、拙く読み上げました。
「……『まあ、あきれた。そんなしみったれた、こまかいこと……。』しかしたつの……えてみても、それはこまいことではないだろう。……『こまいことじゃありませんよ。お……をつくるには、……もつもれば……』」
読んでいてもさっぱり意味が判りません。就学前の私は平仮名しか読めなかったのです。横で私の下手な朗読を聞いていたあなたは終いにはおかしそうに笑いだす始末でした。
「もう少し大きくなったらお読み」
あなたの白く細い手が私の頭を柔く撫でます。
「それじゃあ、このご本、私に頂戴」
「構わないよ。桐子にあげよう」
「春さんが持っている赤い本も」
「これはいけない」
「どうして?」
「桐子が見るような本ではないからね」
「春さんの意地悪」
膨れて見せるとあなたは少し困ったふうな表情をしながら赤い本を抱えて部屋を出て行きました。
私はあの綺麗な赤い本にどんなことが記されているのか教えてくださらないあなたを少し恨めしく思いました。その後も赤い本について執拗く訊ねてもあなたは口を濁すばかりでした。
家にあった膨大な書物はあなたの孤独を慰めていたのでしょうか。本当の名前を忘れてしまったあなたを。
あなたから頂いた文庫本は今でも大切に手元に置いてあります。随分日焼けをして掠れた文字が老いた眼に読めなくても。
あなたとの別れは突然やってきました。
父の仕事――事業を失敗したのが原因でした。多額の負債を抱えた父と母は離婚することになり、抵当に入れていた家も手放さなければならなくなりました。私は母に引き取られることになりました。父と離れること、お友達と別れることも悲しかったですけれど、何よりもあなたに逢えなくなることが一番身に堪えました。私はもうあなたに逢えないことを何度も云い出そうとして、敵いませんでした。喉元まで出掛かっている言葉を吐いてしまえば、見たくない現実を直視するようで、どうしても云えなかったのです。言葉にしなければ現実にはならない――幼い私はそんなふうに頑なに思い込んでいたのです。それに、あなたを独りにすることの罪悪感もありました。私がいなければあなたはまた独りぼっちになってしまう、あなたの名前を呼ぶ人がいなくなってしまう――今思うとおかしな話ですけれど、あの頃はとても真剣に考えていたのです。
私はあなたの前ではいつもと同じように振舞っていました。けれど、独り泣きながら家路に就くことも屡々でした。あなたも普段と変わった様子はありませんでしたし、何もお訊ねにはならなかったですけれど、本当は何事かをお気付きになっていらしたかもしれませんわね。
私はあなたにさようならも告げずに、梅雨が来る前に母に連れられて生まれた土地を離れました。
それから……それから、私は学校に通うようになり、友人にも恵まれ、新しい町にも馴染んで暮らしました。でもあなたを忘れたことはなかった。春が来るたびに、桜が綻ぶたびに、あなたを想いました。いいえ、本当は毎日のようにあなたを思い出していました。今、貴方はどうしているのかと。お寺の境内にある平屋で独り夥しい本に囲まれ、孤独に本を書き、本を読み暮らしているのかと。それとも誰かと一緒にいるのか。あなたが寂しくなければ良いと思いながら、あなたの隣に誰かがいることが耐え切れなかった。道行く人にあなたの姿を探して、白い俤を重ねて。今すぐあなたに逢いたいと何度思ったことでしょう。辛くて悲しい時は殊にあなたが戀しくなるのでした。
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