人魚の骨 参
(参)
……聲(こえ)が聞こえる。低く呟くような聲は読経のそれに聞こえたが、次第に声音の輪郭が明瞭になり、不思議な音程を伴って耳へ届き出す。聞いたこともない旋律と言葉に引き寄せられるようにして私は暗闇の中を歩いた。
辺りは酷く暗く、空気はひんやりとしている。目線を歌声が聞こえる方へと転じると仄白く、ぼんやりと浮かび上がるものがあった。――染井吉野。
酣の桜は風に吹かれて夥しい花びらを散らし、暗闇を白く染め抜いた。花吹雪に歌声が千切れ、遠くなり、風が過ぎ去り静まると闇が本来の姿を取り戻し、誰のものと知れぬ歌声がまた近くなる。と、桜の下に人影が認められた。白い着物を着ている。どうやら歌声はその人物のものらしい。私は目を凝らして人物を見定めようとした。しかし妙なレンズを覗いているかの如く、上手く像が結ばない。凝視すればするほど霞んでぼやけてしまう。幾度か目を両手で擦ってみても結果は変わらない。白き影ははっきりしているのに輪郭の裡側はとろんと曖昧に溶けている。私は歩みを速めて桜の下へ急いだ。
気紛れに吹く風は生暖かく、なぜか海の香りがした。海はおろか、波の音すら聞こえやしないのに。見渡す限りの闇のどこに生命の海があるというのか。
不意に歌声が止んだ。その時には桜の下に立っている人物が誰だか解かった。K氏だった。
彼の目の前に立つと、K氏はにっこり莞爾(かんじ)して自らの着物の帯に指をかけて、するりと解いた。合わせ目を開く。真っ白な裸体が現れた。私は瞠目した。彼の左の腰骨と右の首筋辺りに真珠色に輝く鱗が群生していたのだ。K氏は驚いている私を他所に白い貌を寄せると朱唇を重ねてきた。口の中に何かが押し込まれ、確かめる術もなく嚥下する。私は抗うことを忘れて立ち尽くしていた。すると今度は私の着物が脱がされる。然も当然とばかりに彼は私の帯を解き、肩から着物を剥ぎ取った。視線を下方に向けると胸が隆起していた。豊かに息づくその下を更にくだってゆくと下腹部にはあるべき男の徴がなかった。私の肉体は女性に変じていた。そうしてこれから始まることを全て悟った。――私は知っている。
彼は私を腕に抱き、手で、唇で、舌で、時に謎めいた眼眸(まなざ)しで私の躰をなぞり愛撫する。彼の躰は今しがた水に浸かっていたかのように冷たく、しかし触れ合う膚はやけに熱い。そっと首筋にある鱗に指先を滑らせると滑らかな、やや硬質な手応えがあり、擽ったそうにK氏が吐息を洩らした。目の前で輝く鱗は真珠を薄く切って膚に貼り付けたよう。戯れに舌先で触れてみると微かに海の味がした。先ほど感じた海の香りは彼だったのか。
K氏は私の躰を地面に横たえると脚を割り開き、身を滑らせて入り込む。見上げる白い顔は涙に滲み、影に暗く、表情が窺えない。執拗に触れてくる手は優しかった。不思議と嫌悪感はなかった。肉体を貫かれ、腰を番う。押し寄せては引き、また押し寄せる熱と悦楽の感覚の律動は海そのものだった。溺れそうになるのを骨ばった肩に縋り、壮絶な快楽の坩堝に呑み込まれまいと白い首に腕を絡める。彼も悩まし気に眉根を寄せ、目許を上気させながら秀でた額に珠の汗を滲ませる。徐々に高まり、張り詰めてゆく感覚が躰じゅうに漲り、飽和しそうになる。落ちてゆくのが恐ろしくて脚を彼の腰に絡めて、全身でしがみついた。
事の終わりは唐突だった。熱情が体内で弾けたのが解った。ふっと躰から力が抜けて急激に意識が遠ざかってゆく。K氏は深く息を吐くと満足そうに目を閉じて私の上へと崩れ落ちた。夢現に彼を抱きとめると海を孕んだ風が吹き渡り、桜の花を攫いながら慾が滾った膚を冷ましていった。
**********
腹部がはち切れんばかりに膨らんでいる。とても重たい。私は異様に大きくなったお腹を抱えて宵闇が迫る中、えっちらおっちら長い坂を上ってゆく。早く、早く、一刻も早くあの桜の下に行かなくては。気ばかり急いて脚が縺れそうになる。重心を取るのが変に難しい。少し歩いただけでも息が上がってしまう。しかし、早くあの場所へ行かなくてはならない。何故だか解らないけれども。でも私の中の何者かがそう急かすのだ。あの桜の下へゆけと。もう時間がないのだと。時間? どうして? だが、それにも構ってはいられない。とにかく行かなければならないのだ。
見慣れた景色。暗くなり始めた坂道に人気はない。皆、家に帰ってこれから家族と夕食の団欒を囲むのだろう。どこからともなく犬の遠吠えが響いてくる。何か不吉な予感を伴って。胸がざわつく。息が苦しい。坂道は一向に終わりが見えない。こんなに長い坂だっただろうか。そんなことはどうでも良い。早く行かなければ。躰が重い。お腹が重い。この中に何が入っているのだろう? 自分の躰なのに借り物みたいだ。
様々なイメージが脳裏を過る。大きな金魚鉢、西瓜、風船、巨大な水晶玉、岩、胎児。
――胎児?
そう思った途端、腹部が張って小さく痛み始めた。
私は痛みに耐えながらのろのろと坂道を上った。徐々に強くなる痛みに冷や汗が噴き出す。あまりにも痛くて歩調が緩み、歩けなくなる。ここで休んでしまってはいけない。坂を上りきれなくなってしまう。躰を引き摺るようにして歩く。刺すような痛み。激痛。眼から火が出そうだ。坂の頂点まであと少し――脚の間から少量の水が流れ出た。腹痛は陣痛だった。今この場所で子どもが生まれてしまう。それは駄目だ。ここでは。あの桜が咲く場所まで行かなくては。ゆっくりと歩いて何とか坂道を上り切った時、血が混じった羊水が多量に出た。もう駄目だと思った。誰もいない。私ひとり。夜闇。静寂。蹲る。地面を流れていく。水。血。海の匂い。
躰の内部から押し出されたものを両手に受けた。恐る恐る胸へと赤ん坊を抱きかかえた。血と胎内組織に塗れた赤ん坊は泣かなかった。臍の緒が付いたままの赤ん坊は目を固く閉じていた。赤く鬱血した小さな塊を見て私は短く悲鳴を上げ、取り落とした。ごつっと鈍い音がした。慌てて赤ん坊を拾い上げた。息をしていなかった。頭を打ち付けて死んでしまったのか、それとも死産だったのか――私は腕にくったりした温いそれを抱きかかえて歩き出した。ここでは駄目だ。やはり桜の下でなければ。
目指していた桜の下に辿り着いた時にはすっかり夜になっていた。
桜は仄白く群れて咲いていた。私は体温が喪われたそれを地面に置くと桜の樹の根元を両手で掘り出した。土は湿り気を帯びて硬く、私の手を拒んだ。全ての爪が剝がれても、成し遂げなければならなかった。時間をかけて土を深く掘り返すと、その穴の中に赤ん坊を横たえた。罪の意識よりも悍ましさが勝った。産み落とした赤ん坊の――それは男の子であった――左腕にびっしりと鱗が生えていたので。
人ならざる者、禁忌の子。厭わしく、呪わしい赤子。
これで良い。こうするしかない――永遠に目を開けることない赤ん坊の上に掘り返した土をそっと被せた。
頭上で桜の梢が風に揺られて、ざわめいていた。
**********
私は真夜中を走っていた。そんなことはありえないと思いながら、緩やかで長い坂道を駆け上ってゆく。目指しているのは坂の上にあるT病院である。正確に云えばT病院にある染井吉野である。
ここ数日、私は奇妙な夢に魘されていた。自分が女になってK氏と交わる夢、子を孕み、産んで死んだその男児を桜の樹の下に埋める夢――日によって細部はまちまちであったが、大筋は同じである。夢の内容はK氏が語った内容そのものでもあった。夢に魘されるのは妙に彼の話が印象に残っているせいだろうと思っていた。そのうちに話の内容も忘れ、夢も見なくなるだろうとも。特に気にはしていなかった。だが、私の思いとは裏腹に事態は更に奇妙な展開を見せた。私の左腕の上部――二の腕の辺りに真珠色に輝く鱗が生えてきたのだ!
初めは何かにかぶれたか、虫刺されかと思って放っておいた。が、それは日に日に範囲を広げ、気が付いた時には夢で見た鱗とそっくり同じものが密生していたのだ。今でも鱗の範囲は成長していて、恐らく数日後には肘から上は凡て鱗に覆われてしまうだろう。
――病院へいくべきか。
咄嗟にそう思ったのも束の間、もっと別なことが気になりだした。私が産み、殺した――と思われる――赤子のことである。桜の樹の下に本当に埋めたのだろうか? そもそも本当に私が産んだのだろうか?
深夜、寝静まった道を駆けながら、夢は夢であって決して現実ではない、私があんなことをするわけがないと思いつつ、しかし腕の鱗はどう説明する? K氏も云っていたではないか。左腕を見せながらこれが全ての証拠であると。私は目を開けながら夢を見ているのだろうか? 頭がおかしくなってしまったのだろうか? K氏の白い貌と迫る赫(あか)い唇、散りゆく桜、躰を貫く激痛、腕に抱いた赤ん坊の重み、その温み、血と海の匂い、手を拒絶する冷たい土の感触……それらはありありとこの躰に刻み込まれている。私にはもうわけが解らなくなっていた。鱗が膚を、躰を侵蝕するように夢が私の現実を侵食しようとしていた。
坂を上り切ると深更の闇の中に佇立するT病院が見えてきた。私は何かに追われるように走って敷地の中へ足を踏み入れた。息せき切って迷わずにあの桜の樹へと向う。
果たして染井吉野はまだ咲き残っていた。息を整える暇もなく私は地面を素手で掘り返した。心の中で「ありませんようにありませんようにありませんように」と一心に念じながら。爪の中に苔むした土が入り込む。湿った土は硬く、なかなか思うように掘り進まない。小石に爪が引っ掛かって一部が剥げた。構うものか。
「ありませんようにありませんようにありませんように」
どくどくと蟀谷(こめかみ)が脈打つ。緊張が高まり心臓が激しくなった。息が苦しい。頭の中で白い影が翻る。K氏の顔、顔、顔、顔、顔。いつしかそれが目を堅く閉じた赤子の死に顔にすり替わる。
「ありませんようにありませんようにありませんように……」
念仏のように唱えながら土を掻き分けると白いものが覗いた。更に掘り進めていく。
ありませんようにありませんようにありませんようにありませんように――ああ!
黒い土の中から虚ろになった眼窩が私を見上げていた。
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