人魚の骨 弐

(弐)

 T精神病院で偶然に知り合ったK氏の話は誠に奇妙なものであった。

 K氏は見たところ、三十路に届くか届かぬくらいかの、青年といっていい若い容貌で、瓜実顔の、目許の涼しい、一種近付き難いまでに整った顔立ちをしていた。一言で云って女好きのする顔である。青白い白眼を縁取る睫毛が濃い故に妙に目力があった。白眼と黒眼の対比(コントラスト)が強いせいもあったろう。ほんの僅かな間でも眼を向けられれば、蛇に睨まれた蛙の如く、或いはメデューサに魅入られた如く、縛され、呼吸(いき)ごと縫い留められてしまう引力があった。実際、私はK氏と一瞬、眼が合っただけで呆けたように彼の顔に見入ってしまった。K氏は一度見たら忘れられない印象を残した。網膜の奥に灼きつく陰画(ネガ)のように。

 春の日は穏やかで静謐だった。

 天から降り注ぐ澄んだ陽光に彼の白い耳殻が透けて仄かに紅が差す。切り揃えられた髪の下で複雑な形をした花が咲いているように見えた。

 K氏は正面を向いて徐に口を開いた。

「先ほども云いましたが、あの桜の下には屍体が埋まっている」

 嘘だと思うなら掘り返して見せましょうか――挑むような視線を向けられて私はたじろいだ。彼の眼はどうも苦手だ。眼が、美しすぎる。妖しい魔力が漆黒に燃えている。眸の底に。

 私が押し黙ってしまったのを、気分を害してしまったと気拙く思ったのか、ふっと彼は淡く微笑んで「嘘と云えたら良かったんですけれど」小さく呟くと再び正面に視線を投げた。眼から解放されて、ほうと脱力した。私も桜を見遣った。

 染井吉野は満開だった。麗らかな陽射しの中で爛漫と花を綻ばせて、時折吹くそよ風に小さな花弁を慄わせる。春陽を透かして桜は地面に濃淡のある影を描いていた。本当にあの桜の下に屍体が埋まっているのだろうか? 凄惨な屍体と美しい染井吉野。確かにあの有名な文学作品は桜の凄艶さを生き物の屍体に求めていた。

 ――あまりにも美しいものには皆、毒がある。薔薇に棘があるように。K氏も、同じく。

 桜の前の歩道を病衣を纏った初老の患者と付き添いの看護師がゆったり歩いてゆく。私はぼんやりと二人を目で追う。呑気な風景にK氏と私だけが別の世界にいる錯覚をした。向こうが此岸なら此方は彼岸。軟風にK氏の声音がのって鼓膜を搏(う)つ。それは開いてはいけない扉をノックする音に思われた。適当に口実を作ってその場から立ち去ることもできたのに、私はそうしなかった。彼の話に好奇心を覚えたのもあるが、それ以上に美貌の青年に惹きつけられていたのだ。美しいその裡側に巣食う暗黒を見極めたかった。またそれとは別に意識のどこかで心を患ったK氏を哀れんで卑しい優越感に浸ってもいたのだった。

「……私は桜の下で鱗のある男と三日三晩交わりました。肉の契りを結んだのです」

「鱗のある男……?」

「左の腰骨と右の首筋にそれはありました。それから右脚の脹脛と背中にも所々鱗がありました。月光を受けた鱗たちは真珠色の光沢に輝いていました。触れると爪のような硬さでひんやりとしていました。戯れに鱗を一枚、剝がし取ってみると彼は少し厭そうな表情をしました。もしかしたら痛かったのかもしれません。僅かに肉が裂けたような皮膚が覗いていましたから。彼は私が剥がした鱗を私に与えました。私は頭がぼんやりしたまま……躊躇わずに鱗を口に含んで飲み下しました。すると急に躰が熱くなって気が付くと男に抱かれていました。でもそれも霞がかったように、不思議な心地でした。それからどれくらい時間が経ったのか、意識が明瞭になると私は自宅の玄関の前に立っていました。靴をどうしたのか、足は裸足で土塗れでした」

「そんなことがあと二晩も続いたのですか?」

「ええ、そうです。私は気が付くと桜の下に立っているのです。桜の花群れを透かして月光が蒼く差して……そしてそこには鱗がある男がいる……」

 K氏は僅かに白い頬を引き攣らせた。何か忌まわしいものを見たかのように。

「その男というのは、あなたの知った顔ではなく?」

「どこかで見たことがあるような気もしましたが、違うかもしれません。今では上手く思い出せません。何せ、百年近く前のことなので……」

「え?」

 目を瞬いてK氏を見遣ると彼は片頬に謎めいた微笑を浮べて朱唇の端を吊り上げる。笑っているのに表情が読み取れない――それは彼の漆黒の双眸が少しも笑っていないせいだった。挑むような強さを孕みながらどこか冷めていた。生を諦めているかのような無表情。

「鱗がある男と三日三晩交わった後、躰が急に気怠くなって酷く重たく感じられるようになりました。熱っぽいような日々が続いたかと思うと今度は腹部が膨らみ始めたのです。私は自分の躰の変化に戸惑いました。何かの間違いだと思いながら、あの男の子が私の中で育っているのを知りました。日に日に腹は大きくなっていきます。堪らなくなって、家の者に実情を明かしましたが、全く取り合ってくれませんでした。逆に私の頭がどうかしていると云われる始末です」

「病院には行かなかったのですか? その、婦人科などには……?」

 彼の話を聞きながら、私が勘違いしているだけで、実はK氏は彼女なのかとふと思った。が、幾ら端麗な容姿とはいえやはりK氏は男性である。手の形や尖った喉仏、声の音域や質感は疑いようがない。

 K氏は緩く首を振って言葉を続ける。

「或る夜、私は声に呼ばれて――あの男の声です――ふらふらと外へ出ました。真っ黒な夜でした。どこをどう歩いたのか、あの桜の下に私は立っていました。当時はまだ病院は建っていません。ここら一帯は何もなくて、あったのは染井吉野と寺だけです。今も病院の裏側にあるでしょう。流石に墓地は病院が建つ頃に他所に移したようですが。――そう、それで。不意に激しい腹痛に襲われてその場に屈み込むと脚の間から水が流れました。そうです、私は俄かに産気づいたのです。どうすることもできずに私はひとりきりで子を産みました。男児でした。息も絶え絶えに生まれたばかりの赤ん坊を抱いて見ると、左腕にびっしり――」

「――鱗があったのですか?」

 彼は静かに頷くと濃い睫毛を伏せて、

「私は悍ましくなって――産声を上げる赤ん坊の口を塞いで殺しました」

 感情のない声音で、何でもないふうに告げた。

 鶯の囀(さえず)りが場違いのように聞こえた。柔い春風が頬を撫でてゆく。――沈黙。

「……それで、あの桜の下に埋めたのですか?」

 K氏は開いた睛眸を染井吉野に向けた。彼は何も云わなかった。

 彼の語る話は夢と妄想が混じり合っている気がした。どう考えても現実には起こり得ない。一体どういう理由があってこのような妄想を裡に抱えて育むに至ったのか。

そこで私は去年の春、不幸な――というよりは不可解な亡くなり方をした知人Sを思い出した。彼もまた現実と妄想の狭間を彷徨いながら彼岸へ逝ってしまったのだ。同性の愛人と肉体の一部を交換する遊戯に耽った挙句、自らの心臓を抉り取り出そうとして誤って死んでしまったのだ。初めのうちは玩具を使って躰の一部として見立てたごっこ遊びだったらしい。が、やがて遊びは行き過ぎて――現実を乗り越えて――本当に躰を切り裂いて己の心臓を愛する人に捧げようとした。彼らがどうして越えてはいけない一線を越えてしまったのか。相手を愛するあまり、それと知らず狂気に近付いてしまったのだろうか。

物思いに沈んでいると彼は出し抜けに左袖を捲り上げて、ご覧なさい――私の方に華奢な腕を差し出す。

「これが全ての証拠です」

 気味が悪いでしょう――晒された白皙には無数の傷痕が刻まれていた。鋭利なもので自ら切り付けたらしいその傷は痛ましく膚を無惨にしていた。みみず腫れのように皮膚が盛り上がり、縫合した傷もあるのか、表面が引き攣れた部分も散見された。火傷のように赤く痕になっているものもある。どうやらK氏には自傷の傷痕は鱗として見えているらしい。否、そう認識している、と云った方がより正確だろう。

 私は返事に窮して、ただ「はあ」と間抜けな相槌しか打てなかった。

「以来、私はもうずっと、百年近く生きているのです」

 風が吹き渡り、染井吉野の梢を揺らしていく。薄紅色の花群れは風にざわめいて僅かに花弁を零した。宙を舞い散る花びらは白い陽射しの中で裏表翻りながら、きらきらと煌めくようにゆっくりと降下してゆく。

 私は狂ってなどいない――小さくも、はっきりとした意思が宿った呟きが隣から聞こえた。

 **********

 私はK氏から聞いた話を頭の中で反芻していた。彼の話はどう考えても常軌を逸している。しかし知人のSのことを思うと、K氏の突飛な話も幾分か現実に即した事実が含まれているような気もした。奇妙な想念、妄想に囚われるにも、それなりに何らかの根拠があるはずだ。

K氏が百年近く生きているというのは恐らく人魚伝説に因るものだろう。人魚の肉を喰らうと不老長寿になるという伝承である。彼の場合、肉を喰らったわけではないが、鱗を食し、交接によって肉体を受け入れたという点では類似の行為かもしれない。鱗があると云っていたのは疥癬などの皮膚病が考えられる。また妊娠、出産という話も、その場で聞いた時にはかなり奇異に思えたが、東南アジアの国で同性愛の行為により男性が想像妊娠をしたという事例があり、もしかしたら彼も何らかの理由で想像妊娠をしたのではないかと推測された。

 ――理由。

 得てして、人が病的な妄想を抱くのは現実との折り合いをつけるためだ。己が認識する現実と実際にある現実がズレてしまった場合に、どうにか辻褄を合わせようとして精神的な病が生じる。それは或る種の防衛本能である。生きていくための。

 彼の腕に刻まれた無数の傷痕はその苦悩であろう。本気で死ぬことも考えたかもしれない。だから彼は保護の意味も兼ねて病院にいるのだろう。

 そこまで彼を追い詰めたのは何であったか。

 一通り考えて私はある可能性に辿り着いた。が、それ以上、推測することは憚れた。邪推とも取れるそれに激しい嫌悪感を覚えた。恐らくもう二度と会うこともない相手であったが、私の勝手な想像の中でさえ、彼の過去を無理やりに暴くことは良心が咎めた。想像が事実であったならば、尚更。

 K氏の謎めいた微笑みが一瞬、脳裏に浮かんで、消えた。

月睡蓮

椿蓮子による一次創作サイト。小説や個人ペーパー、日記などを置いています。 どうぞごゆるりとお楽しみくださいませ。

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