熾天使 ①
1.
自殺日和の上々天気。死のエーテルが上空に煌めいている昼下がりに私は露天商から卵をひとつ買った。卵を買ったのはちょっとした気紛れだった。
卵は鶏卵とほぼ同じ大きさで薄蒼い色をしていた。蒼い表面に白い絵の具で雲を描き込めばシュルレアリスムの絵画のよう。ルネ・マグリットが描く奇妙に平坦な青空を思わせた。卵は掌に載せると思いの他、重量感があった。恐らくこの卵は石膏から成る模造品であろうと思われたが、露天商に因ればれっきとした卵だと云う。それも、天使の卵だと。
「嘘だと思うなら、試してご覧なさい。月の光に三日三晩、晒しておくと天使が孵化するので。何と云ってもこの卵は銀河鉄道で天から運ばれてきた特別なものなのですから」
流石に露天商の言葉を真に受けたわけではないが、彼の口上が面白かったので薄蒼い卵を買い求めたのだった。騙されたとしても銀貨一枚分。惜しくはなかった。
天使の卵を陽射しにかざしてみる。美しい形をしたそれは白んだ日光の中で青みを深くする。蒼空と同化して私の手の中に空が握られているのだと一瞬、錯覚した。
――本当にこの小さな卵の中に天使が羽根を畳んで蹲っているのだろうか?
耳に宛がってもひんやりとした卵殻の質感が伝わるばかりで生命の片鱗はついぞ見つけられない。卵は私の手の中で沈黙を守っていた。
私はそっと卵を外套のポケットに忍ばせて雑踏の中、帰途に着いた。
その夜、私は昼間買った卵を窓辺に置いた。部屋の灯りを消して月光が良く届くように窓を開けた。南の天には十六夜月が檸檬色に輝いて鎮座していた。温度のない冴やかな月影は澄明に透って蒼白く、卵殻の色を黝くさせて、卵と云うよりは何かの鉱物のように見せていた。私は窓辺に凭れ掛かって置いた卵を指先で弄んだ。僅かに揺れるそれに「本物なら出ておいで」戯れに話しかけて、しばしば欠けた月輪を仰いだ。月も卵も何も語りはしなかった。夜の静寂だけがあった。私は時折吹き込む柔らかな夜風に身を委ねて眸を閉じた。夜はいつだって、優しい。そのうちに私は睡りへと滑り落ちてゆく。
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卵を買ってから三日目。今夜も昨日と同じように窓辺に卵を置いて、月明かりに晒した。今のところ特に変化は見られなかった。薄蒼く、冷たいまま、頑なに沈黙を纏っていた。月が少しずつ翳に侵蝕されながら朔月へと向かっていくのを私は窓辺に倚って眺めた。
いつの間にか私は卵に愛着を持つようになっていた。家を空ける時は鞄や外套のポケットに忍ばせて持ち歩き、時々そっと取り出しては矯めつ眇めつ眺めた。また親しい友人を捕まえては子供のように見せびらかして「銀河産の天使の卵だよ」嘯いてみせた。勿論、相手は苦笑いをするばかりではあったけれど。
「本物なら出ておいで」
すると僅かに卵が慄えた――ように見えた。もう一度、話しかけてみる。――本物の天使なら卵から出ておいで、と。しかし卵は何も応えなかった。やはり錯覚だったらしい。私は深く息を吐いて、開け放っていた窓を閉じた。月が遠くなった気がした。
「おやすみ」
誰に向けるでもなく呟いて寝室へと引き上げた。
翌日、卵のままであったなら――そこまで考えて睡魔に意識が途切れた。
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