薔薇と乙女 ③
季節は移ろい、しとしとと長雨が続く梅雨時期も残すところあと半分という頃。
緑子はすっかり痩せ衰えて、寝ついていました。学校は半月以上も休んでいました。
母親と派手な喧嘩をしてから緑子は不承不承に一度、病院へ連れて行かれました。しかし緑子は医師の問診を全て拒絶しました。何とか緑子の口を割らせようと医師はさり気なく雑談もしましたけれど、緑子は一切、応じませんでした。医師は緑子を診察室から出して、次に母親を呼びました。
母親は医師に問われるまま、生育環境やこれまでの娘の様子、そして狂乱のあの日……事のあらましを述べました。
医師はカルテに母親の言葉を書き留めながら、食事の拒否が続いているのは危険であるとして、入院治療を提案しました。しかし母親は経済的な理由を思って躊躇いました。医師は助成金の制度など丁寧に説明しましたが、母親は煮え切らない態度でいました。母親も混乱していたのです。また、娘がおかしくなったのは自分のせいだと、白衣の精神科医に責められているような気持になっていたのでした。母親にとって耐えがたい苦痛でした。自分の母親としての価値や能力をまるごと否定されたように感じていたのですから。
――母親失格。
そんな言葉が胸を鋭利に抉ります。
それにあの強情な娘がおとなしく入院するとも思えません。医師すら沈黙で拒絶する娘を、母親失格である自分が――決して娘から好かれていない自分がどうして説得できましょう。
母親は憂欝を重たく肩に乗せてひとまず何でも良いから薬を処方して欲しい旨を告げて、医師も了承しました。向精神薬と液体タイプの栄養剤を処方箋に書き、また一週間後に来院するように言って母親を診察室から出しました。
しかし、もう二度と緑子と母親が病院を訪れることはありませんでした。
緑子は一日中布団の中で過ごしました。ぼんやりと天井を眺めながら、空想をしているのでした。
――もうすぐ。きっと、もうすぐ。私は美しい小夜を産むのだわ。
そうして時折、小夜の部屋で読んだリルケの詩を思い出していました。
『薔薇よ……
薔薇よ、おお、この上もなく完全なものよ、
限りもなくみずからをうちに含み、
限りもなくみずからに答えるもの、
あまりの美しさに、そこにあるとも
思えぬからだから生(お)い出た頭部。
おまえに比べられるものは何もない、おお、おまえ、
そよぎやまぬ滞在の至高の精よ、
ひとの行きなやむ愛の空間を
おまえの香気は行きめぐる。』
美しい薔薇。
完全無欠の美。
小夜。
長く学校を休んでいる緑子のために数人のクラスメイトがお見舞いに来たことがありましたが、緑子はそれすらも拒絶しました。どうせ担任の教師に言われて、渋々来たのに違いないと思っていたからです。そしてそれは正しい認識でした。
クラスメイトからは授業で使ったプリントや学校行事の告知プリントが絶えず届けられましたが、それらは緑子に直接手渡されず、全てポストに投函されるだけでした。しかし緑子は溜まっていくプリントには見向きもしませんでした。既に不要であったからです。
母親は以前と比べて、少しだけ緑子に優しくなりました。が、その態度は腫れ物に触るようなもので、緑子を無性に苛立たせました。緑子は飢えに爛々と輝く鋭い目で母親を睨みつけて遠ざけました。
母親は遣る瀬無い気持ちのまま、花屋へ行って薔薇を買い求めました。赤や白、黄色の薔薇達を。それらをバケツに挿してそっと緑子の枕元に置いて、何も言わず部屋を出てゆきます。緑子はそんな母親の背中を強く見据えて、心裡で呪いの言葉を吐くのでした。
――死んでしまえ。
どす黒い呪詛は己にも向けられていました。
日がな一日、床に臥せって、何もできないまま、母親に買い与えられた薔薇を食するだけの生活……特に我慢ならないのは、大嫌いな母親から薔薇を餌のように与えられているという屈辱でした。
薔薇はこの上なく神聖なものであります。醜悪な母親が手にしたそれは伝染病のように薔薇を穢し、夥しく重なり合う花弁の内部から目に見えぬまま、腐らせてしまうのです。
それだから己を充たす糧は自分自身で獲得するか、愛する小夜から与えられたものでなければならないのでした。夜の名を持つ神秘な薔薇を。
しかし悲しいかな、薔薇を貪り食いたいという欲求には勝てません。激しい嫌悪を覚えながら、緑子は母親が置いていった薔薇達を口に詰め込むのでした。
心を枯らし、餓えて、小夜に戀焦がれ、愛しながら……。
小夜は時々、緑子を見舞いにやって来ました。
緑子としてはあまり自分の姿や、見すぼらしい部屋などを見られたくなかったのですが、けれどもやはり彼女がお見舞いに来てくれるのが嬉しくて、小夜を歓迎しました。
緑子は布団の上に起きて座って、見た目ほど病は酷くはないのだと暗に示しました。そんな彼女を小夜は痛ましく思いながら、励ますつもりで明るい表情を作って、他愛のないお喋りをしました。
「緑子さん、夏休みになったら私と一緒にK市の別荘に来ない? 毎年両親と別荘に行くのだけど、数日もすると近くに親しいお友達がいないものだから、数日もするととても退屈してしまって……でも緑子さんが一緒に来てくださると、きっととても楽しいと思うの。涼しくて、自然がたくさんある良いところよ。だから……」
緑子は薄く微笑みました。
「小夜さん、ありがとう。そうね、そうできたらとても嬉しいけれど、でも私は」
そこで緑子は不自然に口を噤みました。喉の奥から何か熱いものが迫り上がってきます。緑子は苦しげに息を詰まらせ、半身を前のめりに傾けて喉を掻き毟りました。
「緑子さん⁉」
小夜は驚き慌てながら、哀れに痩せた緑子の背を擦りました。
「……ぐ……う……っ」
ごぼり、と喉の奥で鳴ると蒼褪めた唇から真っ赤なものが吐き零れました。それはひとひらの薔薇の花弁(はなびら)でした。緑子は咳込みながら幾つもの真紅の花弁を吐きます。布団の上に夥しく散るそれらは鮮血のようでした。
小夜は信じられない思いで驚愕に漆黒の瞳を大きく見開いて緑子が吐いた薔薇の花弁を見詰めました。異常な光景に叫び出しそうになりながら、恐々と慄(ふる)える指先で血に見えるそれに触れてみました。しっとりと水気を含んだ、仄かに温かいそれは間違いなく薔薇の欠片でした。微かにこの花特有の甘い香りがします。
小夜はすっかり気が動転してしまって、誰か人を呼ぶことに思い至りませんでした。今や彼女の顔も色を喪って紙のように真っ白でした。
緑子は額に滲む汗に前髪を貼りつかせながら、喘鳴して苦しさに顔を歪めながら呆然としている小夜を一瞥しました。そうして告解するように胸の奥に大事に仕舞っていた秘密を打ち明けました。小夜の様子には最早構っていられませんでした。緑子も必死なのでした。
「……小夜さん、きっともうすぐ私は死ぬわ。そんな気がするの。いいえ、気がするのではなく、本当にもうすぐそこまで、それが来ているのが解るの」
突然の告白に小夜は戸惑いを隠せず、困惑に眉根を寄せながら、痩せて骨ばった緑子の手を握りました。彼女の手は酷く冷えていました。そうしながら、努めて冷静に振舞って言いました。
「緑子さん、そんなことを仰らないで。大丈夫よ、きっと大丈夫。ねえ、お薬はあって?」
緑子は頭(かぶり)を緩く振って、聞いてちょうだい――小夜の手をぎゅっと強く握り返しました。
「小夜さん、私には課せられた運命(さだめ)があるの。それはいつか死んでしまうあなたをもう一度、美しいあなたを産むことよ。それには沢山の薔薇が……あなたから貰った夜来香(イエライシャン)の薔薇が必要だったの。でも私が食べていたのは違う薔薇ばかりだった。だから、もしかしたら……上手くあなたを産んであげられないかもしれないわ……。そうしたら、ごめんなさいね。あなたは嗤うかもしれないけれど、私は本気よ。本当にあなたを産むつもりなの。だって、あなたは永遠だから。永遠の美を約束された人だから。……初めて夜来香を食べた時、予感があったの。レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』という宗教画があるでしょう? ふっとその絵が頭の中に閃いたの。神様からの啓示だと思ったわ」
緑子はうっとりとした瞳で――ここではないどこか遠い世界を夢見る目つきで語ります。
話を聞いている小夜は混乱しました。緑子の言っていることがさっぱり理解できなかったからです。
――私を産むですって? 『受胎告知』? マリア様にでもなったつもりでいるのかしら……? なんて畏れ多いことを。やっぱりご病気で気が変になっているのかしら? 尋常ではないわ。それに緑子さんが吐いたあれも……。
緑子の独白は続きます。薄く目蓋を伏せて。
「……ずっと言わないでおこうと思っていたのだけれど、もう最後だから、打ち明けるわ。……私ね、あなたが好きなの。戀しているのよ。一目見た時から、ずっと……愛しているの」
緑子は小夜に微笑みかけました。その微笑はぞっとするような、変に凄惨な笑みでした。小夜はかけるべき言葉を見失って、そっと握っていた手を離しました。それが小夜の、緑子に対する戀の返事でありました。
しかし緑子は小夜が自分のことをどう思っていようが構いませんでした。戀の成就よりも、無事に小夜を産むことの方が重大であったからです。それに小夜を産みさえすれば、この初戀も実るのだと奇妙な思念に支配されていました。もう支離滅裂です。緑子の頭は確実に壊れていました。抱いた狂える妄想は今にも破裂しそうなまでに膨らんで緑子を蝕んでいました。
「……緑子さん、今日はこの辺で失礼するわ。お体、お大事になさって」
小夜は冷めた口調で告げて、そそくさと部屋を出てゆきました。
この日以来、小夜は緑子を見舞うことはありませんでした。
**********
月のない夜でした。
ふと緑子は真夜中に目を醒ましました。
――躰がざわざわする。
これは予兆であると緑子は感じ取りました。
そうです、とうとうその時がやってきたのです。
――今夜に、今に、小夜が私から産まれてくる。
暗い暗い夜の底にいる自分は遂に準備が整い、神聖な闇の産屋に入ったのだと悟りました。小夜を産むには朔月の晩が最も相応しい――澄明に潤んだ漆黒の瞳は新月の夜を凝(こご)めたものであるから。
緑子は布団の中で躰を丸めました。
お腹の辺りがだんだん熱くなってきます。それに合わせて鼓動が早くなり、じんわりと膚が汗ばんできます。はあはあと苦しげに息を乱して、ざわつく躰を、慄(ふる)える躰を抑えるように自分自身で己を抱きしめました。
――今に来る。きっと来る。もうすぐそこまで……。
ドキン、と一際強く心臓が鳴ったその刹那。
――小夜!
心の中で叫ぶのと同時に、痩せて肉の薄かった腹部がごぼりと不自然に大きく膨らみ、次の瞬間には腹を突き破って薔薇の蔓が幾つも飛び出しました。
――え?
緑子は眼球が零れ落ちそうなほど目を剥いて自分の躰を見ました。瞬時には己に起こった事態を理解できませんでした。
「……かは……ッ」
口の端から一筋の紅が垂れ、激痛が躰を貫きました。
裂けた腹から内臓がごぷりと溢れ出し、大量の血が撒き散らされ、辺りは血の海です。生 臭い臓腑と血溜まりの中で、幾つもの薔薇の花が咲き乱れました。群れ咲く薔薇は緑子が愛してやまなかった神秘の夜の花、薄紫の薔薇――夜来香(イエライシャン)でした。
生温かい血の匂いと混じって爽やかな夜来香の香りが何時までも漂っているのでした。
**********
小夜は自室の窓から遠くに小さく聳える煙突を眺めていました。そこからは微かに細い煙が立ち上っています。
――人が焼かれているのだわ。今日は誰かしら。
ぼんやりと思いながら、視軸を眼下に広がる庭へと移します。そこには向日葵の花が背高く伸びて、健やかに咲いていました。薔薇は死んだように眠って蕾すらつけていませんでした。
小夜は窓辺から離れて机の抽斗を開けると、小さな箱を取り出して部屋から出、庭へと降りて行きました。
物置から園芸用の小さなスコップを持ち出すと、丁度薔薇の根が張っている辺りを掘り返しました。少し深めに穴を掘ると、傍らに置いた小さな箱の蓋を開けました。箱を傾けて白い欠片を掌の上にのせました。とても軽いそれは先月、亡くなった緑子の骨の欠片でした。どの部分の骨かは小夜も知りません。葬儀に参列し、骨上げの際に掠めるように持ち出したので気に留める暇もなかったのです。
小夜は緑子の骨を少しの間見詰めてから、そっと穴の中へ落としました。別れを告げるように、土を被せていきます。ものの数分で穴は元通り塞がれました。ここに緑子の一部が眠っているなど、誰も思わないでしょう。小夜ただひとり知っていれば良いことなのでした。
「緑子さん、また来年」
小夜は優しく微笑みました。
どのような形であれ、自分を愛してくれた友人へのせめてもの餞でありました。
――緑子のために夜来香が美しく咲くようにと願いながら。
(了)
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