薔薇と乙女 ②

 それから緑子は時間が赦す限り小夜から貰った薔薇を眺めて暮らしました。

 花瓶なんて洒落たものは家になかったので曹達(ソーダ)水の空き瓶に薔薇を活けました。薔薇の美しい豪奢な姿と見すぼらしい曹達水の空き瓶の不釣り合いな姿が滑稽で悲しいですが、仕方ありません。緑子はお小遣いを貯めて――学校で必要な物を買うために僅かながらお小遣いは貰っていたのです――素敵な花瓶を買おうと思いました。けれども、きっと花瓶を買う頃には薔薇は枯れてしまっていることでしょう。母親に花瓶を買って欲しいと素直に言うことができたなら良かったのですが、如何せん、緑子と母親の関係は良好とはとても言えません。何より、経済的に苦しいのは緑子自身も身に染みております。花瓶を買ってくれなどと母親に言おうものなら素気無く「莫迦くさい」と却下されるのがおちです。そもそも母親は、毎日飽きもせず、呆けたように薔薇を眺めている緑子を半ば気味悪く思いながら、蔑視していました。

 ――あの子は頭がどうかしている。花なんていくら眺めたって食べられやしないのに。

 緑子は毎日、甲斐甲斐しく水を取り替えながら一日でも長く花が咲いていますようにと神様に祈るような思いで薔薇を愛でました。青みがかかった紫色の夜来香(イエライシャン)は戀してやまない小夜そのものでした。

 後から知ったことですが、三輪の薔薇を贈ることは「愛している」という意味があるそうです。勿論、小夜はそのようなことは全く意図していなかったでしょう。単なる偶然であることは緑子も理解していました。けれども小夜が好きなあまり、密かに都合良く考えて己を慰めているのでした。

 ――小夜は薔薇を贈るほどに、私を愛している。

 緑子は小夜に恋情を抱いたその日から、夜眠る時におこなっていた空想の父親との対話を辞めてしまいました。父親の代わりに小夜を心裡に棲まわせました。目を閉じて深い夜闇に身を委ねて小夜と会話しました。時には彼女の白い手を握って。実際に一度も触れたことのない小夜の手は頼りなく、体温も不確かでした。それでも緑子は理想を小夜に重ね、想いを託して、空想の世界で彼女と恋人ごっこをしました。

 手を繋ぎ、肩を寄せ、頬を寄せ、眼差しを交わし合い、薔薇色の唇まであと数センチ……空想の中でも決して触れ合うことのない唇でした。それは緑子に実体験がないために、上手く想像ができないからでした。けれどもそれで構わないと思いました。寧ろ、喜ばしく思いました。小夜を求める気持ちに肉慾があってはならないと考えたからでした。彼女の唇に迫る空想は鮮明な像を結ばないまま、意識の外へと押し遣られました。

 緑子の裡では肉慾は母親へと繋がっていました。醜悪なものの象徴として。

 小夜は夢のように美しい少女なのです。

 桜のように儚く、薔薇のように気高い、白雪のように清らかな少女なのです。そんな聖女のような彼女に肉慾があるとは認めたくなかったのです。小夜が自分の母親のように真っ赤な口紅を引くような人間だとは思いたくなかったのです。その思念の中には「まるで想像がつかない」という、緑子の性に対する幼く未熟な、憶病とも言える感情が多分に含まれていました。

 緑子は小夜に対して酷くプラトニックな愛を抱いているのでした。その本質を理解しないままに。ねじ曲がった純愛とでも言いましょうか。端的に言ってしまえば、緑子の小夜に対する感情はとても独り善がりの、思い込みの激しい、エゴイスティックな、戀とも呼べぬ代物なのでした。しかし緑子は『私は小夜に戀して愛しているのだ』と寸毫も疑わないのでした。

 夜来香は日に日に生命力を喪い、萎れていきました。重たく頭を項垂れて花弁(はなびら)が乾涸びていく様を見るのは緑子にとって身を切られるように辛いことでした。小夜が醜く年老いて死んでゆくのを目の当たりにしているのと同じだからです。小夜は永遠の美しさを約束された少女でなければいけないのです。

 彼女は緑子の願望であり、理想であり、永遠であり、そして愛しい恋人でありました。それら全てが無惨に裏切られるのは胸が張り裂けるほどの痛みを緑子に齎しました。

 緑子は痛みに耐え兼ねて心の中で叫びます。

 ――ああ、小夜!

 そっと触れた薔薇は花弁をはらはらと散らしました。緑子は零れ落ちた乾いた小夜の欠片を指先で摘まんで口に含みました。

 僅かに残っていた爽やかな香気が口の中に広がります。花弁を咀嚼して飲み込むと躰がぽっと温かくなったような気がしました。まるで小夜の体温がそこにあるように。

 緑子は散った花弁を全て口の中に詰め込み、食べました。そうしてから、まだ健気に咲き 残っている薔薇を毟り取って食べました。無我夢中で薔薇を貪り食いました。薄紫の花は細かく噛み砕かれて、緑子の食道を滑り落ち、胃の中へと入っていきます。緑子は胃の辺りを擦りながら不思議な充足感を覚えました。

 充たされているという恍惚。

 小夜が躰の中にいるという悦び。

 腹部を中心に躰が熱を帯びて、緑子はうっとりと目を閉じました。

 そうしてふと何かで見たレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』と題された宗教画が脳裏に閃きました。

 ――そうだ。私が小夜をもう一度、産むのだわ。

 緑子はすうと目を開いて、見る影もなく毟り取られた薔薇の残骸を、虚ろな瞳でいつまでも見詰めているのでした。

**********

 緑子は学校が休みの日曜日に度々小夜と逢い、彼女の自室で薔薇色のお茶を飲みながら楽しく過ごしました。

 六月のある日曜日、小夜は遊びに来た緑子を見て目を丸くしました。長かった彼女の髪が短くなっていたからです。

 丁度、小夜と同じくらいの髪の長さで、肩の上で切り揃えられていました。

「これから暑くなるでしょう。鬱陶しいから切ったの。変かしら?」

 緑子は羞恥に頬を染めながら言いました。小夜がどのような反応を示すのか、期待と不安が綯い交ぜになりました。最も恐れていたのは「似合わない」「どうして私と同じ髪型にしたの?」と言われることでした。前者はショックですし、後者にいたっては、小夜が好きだから少しでも近づきたいのだとは絶対に言えません。

 緑子は俯き加減で鼓動を緊張に高まらせて小夜の言葉を待ちました。まるで神罰を受け待つ罪人の如く。しかし頭上から降ってきた声は思っていたよりもずっと優しいものでした。

「そんなことはないわ。とても素敵よ。私達、お揃いね」

 緑子が顔を上げると小夜はにこりと微笑みました。緑子もぎこちなく白い歯を零して見せました。

 そうは言ったものの、小夜は内心では彼女の変わりように驚きを禁じ得ませんでした。髪型もそうですが、近頃の緑子は顔色があまり良くありません。元々痩せていましたが、更に躰が細くなり、面窶(おもやつ)れしているように見えました。緑子は無理な減量をしているのではないか、もしくはどこか躰の具合が悪いのではないかと小夜は密かに心配しているのでした。

 いつものように小夜は緑子を自室に通して薔薇色の冷たいお茶と切り分けた水蜜桃をおやつに出しました。緑子はお茶には手をつけましたが、水蜜桃は口にしませんでした。

「緑子さん、水蜜桃はお嫌い?」

 小夜は細い銀色のフォークに柔く熟れた実を刺して一口、食べました。

「いいえ。嫌いではないの。ただ、最近あんまり食べる気持ちが起こらなくって……ごめんなさいね」

 緑子は力なく笑ってお茶を飲み干しました。小夜は少しの間、言いあぐねてフォークを無為に弄んでいましたが、思い切って訊ねました。

「緑子さん。どこかお加減が悪いのではなくって? 近頃、随分、お痩せになったようだし……顔色も悪いわ。私、あなたが心配で……」

 眉根を寄せて痛ましげに友人を見詰めました。憂いを孕んだ澄明な漆黒の瞳は心底から彼女を労わり、真剣に心配するものでした。

 すると緑子は頭(かぶり)を緩く振って「そんなことはないわ」懶(ものうい)く微笑します。その微笑みは翳のある謎めいた笑い方なのでした。まるでモナ・リザのような……ただ、瞳だけが爛々と輝いていました。緑子の異様な輝きに溢れた双眸は何かに飢えている人のそれでした。実際、緑子は飢えていました。そうです、彼女は薔薇に飢えていたのです。あの日から――初めて薔薇を食したあの日から。

 緑子はあの日を境に、水や小夜に振舞われる薔薇色のお茶以外に食べ物を口にしなくなりました。食べるのは美しい薔薇の花だけでした。

 何とかお小遣いを遣り繰りして花屋で薔薇を一輪、二輪と買い求めました。それまで緑子は知りませんでしたが、なかなか薔薇の花は高価なのでした。買う時はまさか食べるためとも言えないので、贈り物用だと見栄をはって簡単にラッピングして貰いました。そのラッピングの費用もばかになりません。そのうちお小遣いだけでは足りなくなってきました。学校で使うノートや筆記具などにもお金は要ります。母親に一度、お小遣いの前借を頼み込んだこともありましたが、素気無く断られて終わりました。

 それにもうひとつ、問題がありました。

 花屋で買った薔薇を幾ら食べても、初めて夜来香(イエライシャン)を食した時のような充足感と恍惚感が得られないのです。売り物の薔薇を食べれば食べるほど、緑子の飢餓感は強まりました。また残念なことに花屋には夜来香は並んでいないのでした。

 小夜と友達になったとはいえ、そう何度も薔薇を分けて欲しいとも言えず――図々しいと思われて嫌われるのが怖かったのです――薔薇の季節も盛りを過ぎて、小夜の家の庭は早くも次の季節の花を咲かせようとしていました。あの神秘的な色彩の花はなく、ただ茎が青々と残っているばかりでした。

 緑子は灼けつく飢餓感に苛まれて普通の食事を摂ろうとしたこともありましたが、既に躰が受けつけなくなっていました。食べても吐き戻してしまうのです。

 彼女を襲う渇望は激しいものでしたが、しかし緑子はどこかで満足感も味わっていたのでした。

 飢えは肉体の浄化作用であり、飢えれば飢えるほど、穢れが肉体から出てゆき、高次元にまで清められ、次に食す薔薇がどんなに美味なことだろう……たとえまた激しく飢えるとしても……。そんなふうに彼女は考えていたのでした。

 学校では孤立している緑子でしたからクラスメイト達は彼女の変化に対しても無関心でした。

 ただ、担任の教師は訝しがって一度、どうしたのかと訊ねましたが、勿論、緑子は本当のことなど言うはずがありません。ただ一言「暑気あたりかもしれません」と告げただけでした。教師も面倒ごとには関わりたくない本心から、それ以上追及しませんでした。

 母親はというと緑子の著しい変化にそれとなく気がついていました。食べ物を吐き戻すところを見て、邪推しました。

 もしや何かの間違いを犯して子を宿しているのではないか、と。しかし器量の悪い娘に限ってそんなことは……年齢を考えてもまさかそんな……と何度も思いましたが、やはり真偽を確かめられずにはいられませんでした。それは娘の過ちを咎めるというよりは、同じ女としての情からくるものでした。唯一、母親らしい感情と言っても良いかもしれません。

 母親は緑子を詰問しました。しかし緑子は頑なでした。こんな女と口を利いたらせっかく浄化した肉体が濁ってしまうと沈黙を守っていました。すると業を煮やした母親は無理やり、病院へ連れて行こうとしました。処置は早い方が良いと考えたのです。完全に母親は誤解していたのでした。緑子が黙り込んで真実を告げない棘のある態度に、母親はすっかり自分の妄念を事実だと思い込んでしまったのです。

 緑子は激しく抵抗しました。母子は揉めに揉めました。掴み合いの喧嘩です。髪を振り乱し、腕を振り回し、相手を引き倒し、頬を打ち、悲憤に涙を流しながら、感情に任せて吐き出される暴言、怒号……。

 そうしてとうとう緑子は叫ぶように言ってしまったのです。

「私はそんな穢らわしいことは一切、していないわ! ママが考えるような汚いものなんてありもしないのよ! ママと私は違うの! 私は……、私は、いつか死んでしまう小夜のためにもう一度美しい小夜を産むのよ! 沢山の夜来香(イエライシャン)を食べてね! それが私に課せられた運命(さだめ)なのよ! だから私は自分の肉体を汚すことなんてできないし、私の躰はママみたいに穢れてなんかいないのよ!」

 母親は唖然として娘の言葉を聞きました。

 ――この子は狂ってる。別の医者が必要だわ。

月睡蓮

椿蓮子による一次創作サイト。小説や個人ペーパー、日記などを置いています。 どうぞごゆるりとお楽しみくださいませ。

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